「ポリコレを意識しすぎるとつまらなくなる!」…逆では?

”ポリコレ”という言葉が浸透してきました。
すると、
「最近は何でもポリコレって言われる」
「ポリコレを意識しすぎると作品が面白くなくなる」
など反論も出てきています。


ポリティカル・コレクトネスとは


ポリコレについて、wikipediaの定義を参照します。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿・身分・職業・性別・文化・人種・民族・信仰・思想・性癖・健康(障害)・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
引用:wikipedia

ポリティカル・コレクトネスを心がけるというのは、差別・偏見の再生産を防ぐ役割があります。
具体的にどういったものがポリコレに該当するのかに関してはその都度考える必要があります。

ポリコレは作品を殺すのか


ポリコレを意識すると、本当に作品はつまらなくなるのでしょうか?
私は逆だと思います。

ポリコレによって作品を面白いと思う人はむしろ増える

ポリティカル・コレクトではない作品というのは、差別や偏見が含まれた作品ということになります。

これでは被差別者側の人間は楽しめません。
差別や偏見を含んだ作品は、マジョリティの人間しか楽しむことができないのです。

差別的な表現を除くことで、その作品を楽しめる人は増えるはずです。

表現の幅が広がる

差別・偏見を含んだ表現というのは、ステレオタイプ的な表現だと言い換えることができます。
古典的なステレオタイプに則ったキャラクターしか登場しないような、いわゆるポリコレが意識されていない作品は、表現の幅が狭い作品です。
「ありきたり感」が出てしまいます。

ポリコレが意識された作品では、ステレオタイプ的ではない多様な表現が可能です。
むしろ表現の幅は広がり、面白い作品は増えるのではないでしょうか。

ポリコレで失われる「おもしろさ」は作品の面白さなのか

それでもポリコレを忌避する人は、「作品の面白さ」ではなく、”あるもの”を失うことを恐れているように見えます。

それは「他者を踏みつける権利」、「自らのマジョリティ性を確認する権利」といったものです。
自身の優越性が奪われるような感覚になり、ポリコレを恐れているのでしょう。

しかし、ポリティカル・コレクトによって目指しているのは「平等」であって、「迫害される立場の逆転」ではありません。

まとめ

ネットフリックスやAmazonプライムで海外の作品を見ていると、本当にストレスなく見続けられます。
そして「これがポリコレを意識するということか…!」と気づかされます。

まだまだ改善点はあるのでしょうが、日本のコンテンツに比べると本当に進んでいますね。
「ポリコレが作品をつまらなくする」は嘘です。

ではまた♬