たびたび話題になるいじりといじめの違いですが、それについて考えてみます。
原則的にいじり=いじめだと思う
原則的にいじりといじめは同じだと思います。例外的にいじりがコミュニケーションとして成立するためには、相手と同じルールを共有していなければなりません。
以下にいじりが成立する場合に共有しているルールの例を挙げてみました。
人間の関係性だけパターンがあると思います。
【いじりが成立する前提ルール(例)】
・お互いいじりあえる(からかい合える)
・上下関係がない
・差別的発言や努力・能力を軽視する発言はしない
・言ってはいけない一線を越えない(個人的に気にしていることなど)
・親しい間柄
・お互いいじりあえる(からかい合える)
・上下関係がない
・差別的発言や努力・能力を軽視する発言はしない
・言ってはいけない一線を越えない(個人的に気にしていることなど)
・親しい間柄
カジサックさんのように出会ったばかりの人をいじるのは原則的にNGでしょう。
また、「信頼関係があればOK」という意見もありますが、それだと一方だけが「信頼関係がある」と思い込んでいた場合にいじりが正当化されてしまいます。
いじりがうまくいっているケースは稀
そもそもいじりはかなり高度なテクニックです。周囲を見渡してみると、いじるのが好きな人は大体嫌われています。
特に女性をからかうのが好きな男性は多いですが、あまり好かれているのを見たことがありません。
(好きな人からいじられるのはOKでも、距離感を考えずにいじってくる人を好きになる人はあまりいません。)
おそらくテレビで芸人さんを見て真似したくなるのでしょうが、その発想がそもそも辛い。
テレビ番組は流れの決まったコントのようなものでしょうから、あのノリを現実で再現しようとしても大体の人は滑ります。
「滑ってない!自分は周りを楽しませている!」という自信がある人は、周りに気を使われているのでしょう。
芸人さんのいじりですら辛い
そして芸人さんのような独特の世界の範囲内でのいじり芸ですら、視聴者として見ていて辛いです。番組ですから予め台本があったり、芸人さんの中でいじり=おいしいというルールが共有されているのでしょうが、それでも辛い。
AmazonプライムやネットフリックスやHuluで海外のコンテンツが手軽にみられる現代です。
そこで地上波のコンテンツの”しんどさ”に気づいた人は多いと思います。
全ての「笑い」は内輪のノリ
地上波の番組を見ていて思うのは「全ての笑いは内輪のノリ」だということを忘れがちだということです。「いじり芸」というのは、いわば「強者の笑い」です。
強者の中だけで成立する、内輪の笑いです。
自分よりも下の属性を持った人を揶揄して笑いをとる手法は、強者と自分を同一視できる人以外にはとてもつらいものです。
(上のものを”いじる”笑いは「風刺」になるのでここでは省きます。)
テレビは「強者の内輪でしか通用しないノリ」を「正しい笑い」であるかのように喧伝してきました。
一部の人にしか受け入れられない「笑い」を他の人に強制したらミスマッチが起きます。
それではただの押し付けです。
「同じルールを共有していないと同じ笑いが通じない」という大原則を忘れて相手をいじってしまったら、それはいじめです。
まとめ
宇野常寛さんはカジサックさんからいじられて、イベントを途中で退席したそうです。そういう「NO」を言える人が増えてくると心強いですね。
現実社会では立場の強い者が弱い者をいじるパターンが多いので、弱い者は仕方なく受け入れてしまっているパターンが多いと思います。
特に若い人や女性は、「NOと言ってはいけない」と思い込んでいるという状況があります。
「いじりはダサい」「嫌だったら嫌だと言っていい」という”感覚”が当たり前になることを願います。
ではまた♪