「男には狩猟本能がある」は本当?そこに潜む政治的意図とは

「古来から男は狩りをし、女は子育てをしてきた。だから生物学的に男は仕事し、女は家を守るのが当然だ。」
これはよく信じられている言説です。
果たして本当なのでしょうか?


性役割は遺伝的に決まっているのか

「男らしさ」「女らしさ」は遺伝的に規定されており、男は狩り、女が育児をするのが生物学的に正しい在り方であるーーー
フェミニズムにはこのような反論がつきまといます。

しかし現在、人類学の分野ではそれは偏見に基づく解釈だと批判されており、支持している学者はほとんどいないといいます
つまり人類学者が否定する人類進化史が、世間に浸透しているということです。

心理学の領域においても、人間の能力や形態や行動が、遺伝要因だけではなく環境要因にも影響を受けるという考え方(輻輳説)が主流です。

●輻輳(ふくそう)説(シュテルン)
「遺伝か環境か」の問に対し、両者は車輪の両輪のようなものだとする考え方。
発達は単に個人の遺伝的な性質によるものではなく、環境的要因を受け入れた結果でもなく、両要因がからまりあって機能するという基本原理。

感覚的にも、狩猟本能なるものが現代の私たちの生活に大きく影響を及ぼすという考え方には疑問を感じます。

狩猟本能があるとしたら、なぜ「それだけ」残り続けているのでしょう。
日本人は農耕をして暮らしている期間も長いはずです。
農耕本能(?)によって上書きはされないのでしょうか?
そして、適者生存が進化の原則にもかかわらず、狩猟本能に縛られているのでは、いつまでも現代社会に適応できていないことになってしまうような気がします。

そもそも、狩猟をするような食料調達が不安定な時代に分業をするような余裕があったとは思えません。
毎日の食べ物の保証が無いような状態では、みんなで食べ物を探さないと生きていけないのではないかと想像します。
今現在、男女数人で無人島に取り残されたとして、分業をしようと思わないと思います。

そのような感覚的な次元でも、「男は狩り、女は育児。それが自然」には違和感がありました。


人類進化史のジェンダーバイアス


先に述べたように、進化における「性差論」や「性別役割論」は、過去に人類学で提唱された進化史モデルを元に作られたようです。

しかし、人類進化史が研究されているのは古人類学という自然科学の一分野であり、完璧に客観的なわけではありません。
研究者の「解釈」が反映されたものです。

かつての人類進化史の解釈には、男性学者による男性中心主義の偏見が強く反映されていたというのです。

これらは「ある意図」を持って社会に浸透して行きました。

60年代に台頭した「マン・ザ・ハンター」モデル

1960年代に「マン・ザ・ハンター(男は狩猟者)」モデル(ウォッシュバーンとディ・ヴォア,1961:ウォッシュバーンとランキャスター,1968)が提唱されました。

●マン・ザ・ハンターモデル
このモデルは、男による狩猟での食肉の獲得こそが人類祖先を人類たるものに仕立て上げた要因であるとする。
そして、形態的・技術的・社会的改革は男によって成し遂げられたと説明する。
このモデルでは、女は子供を産み育てる以外の能力は全く考察されずに、目に見えない存在として取りあつかわれる。
引用:バックラッシュ!

この説では、女性は子育て以外の能力を無視された受動的な存在として描かれていたようです。

1968年に出版された「マン・ザ・ハンター」という本には、女性も食料調達をしていたという知見も記述されていたにもかかわらず、「マン・ザ・ハンター」という言葉のほうがインパクトを持って広がってしまったといいます。

「マン・ザ・ハンター」モデルの広がりは、性役割分業が人間のあるべき姿であるかのような錯覚を起こさせしました。

「マン・ザ・ハンター」モデル浸透の背景

この説が広がった背景には、”ある政治的意図”が存在していたようです。

第二次世界大戦後のアメリカでは、女は家で子供を育てるべきであり、男は外で働いてお金を稼いでくるべきであるという価値観が存在していました。
これは第二次世界大戦中に逆転した性別役割に対する反動だったといいます。

戦争中は多くの男達が戦地に出ていったため、女は労働力の担い手でした。
しかし、戦後に男たちが帰国すると男に仕事が必要となります。

すると重工業での女性たちの仕事は男性たちに取って代わられてしまいました。
そして女は家に戻って主婦として母になることが奨励され、仕事の能力が疑問視され始めたのです。

つまり、「マン・ザ・ハンター」モデルは、有償労働を男に譲り、女を家庭内労働に従事させるための「科学的」根拠として使われてしまったことになります。

70年代以降の進化史における女性像

70年代になると女性の研究者が増え始め、女性の捉えられ方に疑問が呈されました。

そして76年頃から提唱されたのが「ウーマン・ザ・ギャザラー(女は採集者)」モデル(サリー・サルコム、アドリエーン・ジールマン、ナンシー・タナー)です。

●「ウーマン・ザ・ギャザラー」モデル
人類進化の初期段階では、食物を集める道具や物を運ぶ道具などの技術革新は、植物食を採集することからはじまったのではないかという仮説を立て、食料集めは主に女たちによって行われてきたという議論をした。
この仮説では女がただの生殖のための存在ではなく、食料調達の主な貢献者であり、子供と共に社会の中核にあり、技術革新の役割も果たしたと主張している。
参考:バックラッシュ!

「マン・ザ・ハンター」モデルでは、受動的な存在としてとらえられていた女性像を、能動的な存在として再定義しました。

そして1990年代になると女性とメスの霊長類に関する研究も増え、それまでのように女性を無視した説は訂正されてきました。

研究結果と乖離するイメージ

しかし「マン・ザ・ハンター」モデルのような古い考え方の方が、社会に浸透しているという現状があります。
これは、社会においてこれらの考え方が再生産されているからです。

現代でも
「男には狩猟本能があるから浮気は当たり前」
「母性本能があるから女は子育てを苦痛に感じない」
といった非科学的な内容がメディアにあふれています。

男脳、女脳を本当に信じている人もいます。

メディアの影響や人の伝聞によって、実際の研究内容とは異なったイメージが世間に浸透してしまっています。

まとめ

「マン・ザ・ハンター」モデルのような男は狩り・女は子育てというイメージは偏見によって生まれ、偏見のある社会で広く支持されてきました。

現在の日本でもその言説は、女性の社会進出や自立を妨げる意図で用いられています。
そこには社会的な要請、政治的な意図が存在します。

この記事は「バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」の中の瀬口典子先生が執筆された『「科学的」保守言説を斬る!』を参考に作成しました。
本ではより詳しく論理的に書いてあるので気になった方は是非。
ではまた♪