映画「リリーのすべて」感想 エディ・レッドメインの繊細な演技が素晴らしい

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「リリーのすべて」あらすじと視聴方法 実話を元にしたストーリー


1926年のデンマークの首都コペンハーゲン。肖像画家のゲルダ・ヴェイナーは、風景画家の夫・アイナーと暮らしていた。ゲルダの画家としての名声はアイナーに及ばなかった。ある日、ゲルダが制作中の絵(女性ダンサー)のモデルが来られなくなり、アイナーに脚部のモデルを頼む。それを見たゲルダは、冗談でアイナーを女装させ、「リリー」という名の女性として知人のパーティーに連れて行ったが、リリーが男性と親しげにする姿に当惑する。しかしその後もアイナーはリリーとして男性と密会を続けていた。ゲルダはリリーをモデルとした絵を描き、画商から評価を受ける。アイナーに対して、ゲルダは自分の前では男でいることを望むが、アイナーは「努力してみる」としか答えず、パーティーの出来事が女装のきっかけではないと打ち明ける。やがて、アイナーはリリーとして過ごす時間が増え、絵を描くこともやめてしまう。ゲルダはアイナーを医者に診せるが、そこでは精神疾患という扱いしか受けなかった。

ゲルダの絵に対する引き合いを機に夫妻はパリに移った。パリにはアイナーの幼馴染みの画商・ハンスがおり、ゲルダはアイナーの真実を打ち明ける。話を聞いたハンスはゲルダの力になるべく、アイナーに数人の医師を紹介するが、やはり精神疾患という診断しか下されなかった。しかし、「それは病気ではない。アイナーの言うことは正しい」という医師が現れる。この医師はアイナーに先例のない性別適合手術の存在を告げ、アイナーは手術を受けることを決断する。引用:wikipedia

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感想①キャストのエディ・レッドメインとアリシア・ヴィキャンデルの演技が素晴らしい

この映画、主人公のアイナー・ヴェイナー/リリーを演じるエディ・レッドメインと、その妻ゲルダ・ヴェイナーを演じるアリシア・ヴィキャンデルがとても良かった…

身体違和に苦しむ女性をエディ・レッドメインが繊細な演技で表現し、見ていてとても苦しくなりました。

男性として生きてきたアイナーは、当初ドレスを着ることに戸惑いや不安、緊張や恐れがあったのに、徐々にそれが自然になっていきます。

そして「女性としての装いや振る舞い」をアイナーは「学習」し、「リリー」になっていくわけです。

男性として生きてきたことにずっと違和感があったからでしょうか。アイナーは水を得た魚のように急速に「女性ジェンダー」を身につけていきます。

ここらへん表現が難しいのですが、身体違和とジェンダーは別もので、「人は女に生まれるのではない。生まれてから女になるのだ」というのはアイナーのようなケースにも当てはまるのかな…?と思いました。

(この辺は不勉強なので認識が違っていたら申し訳ないです)

 

 そしてその妻ゲルダ・ヴェイナーを演じたアリシア・ヴィキャンデルの演技がこれまたいい…!!!!

ゲルダはアイナーを応援してあげるんですよね。

否定せず、アイナーが女性(リリー)であることに同意してあげる。

それがゲルダが愛したアイナーが「消える」ことだと分かっていても。

ここが切ない…!!!

一度だけ「(リリーの状態が長くなってきているので)アイナーに会いたい」と懇願するのですが、その思いも虚しく…

映画の冒頭、アイナーとゲルダの仲睦まじい夫婦生活を見ているせいか、「あの生活は戻らないんだな…(それがアイナー/リリーの幸せであるのは分かっているけれども)」と複雑な気持ちに。

ゲルダの強さ、可愛らしさがとても魅力的でした。

アリシア・ヴィキャンデルさん、一気にファンになっちゃいました…。


感想②映画全体を通して風景が美しい

舞台はデンマークのコペンハーゲンとフランスのパリ。

実際の撮影現場はわかりませんが、風景や建物がとにかく美しい…。

それだけでも見る価値あります。

アイナーが愛し、描き続けたデンマークの風景が、この映画の最初と最後のシーンに登場します。

その風景がなんとも物悲しく、寂しく、切なく、なんとなく懐かしいです。

風景が美しいことが、映画全体の説得力を高めていると思います。


この映画の問題点

この映画、本当に大好きです!

ですが、ちょっと気になる点があります。

リリーに近づくアイナーを「エロく」描写する必要はあるのか

途中、全裸になったアイナーが女性用の服を体に当てて姿見をみるシーンがあるのですが、これがかなり際どいです。

多少見えている感じです。

このシーン、ここまでギリギリを攻める必要性を私は感じませんでした。

現在の社会で、女性の体を意味なくエロくする表現はありふれているにもかかわらず、反対に男性の体のエロ表現は少ないという不均衡が存在します。

これは女性の客体化であり、女性差別の一つです。

ですが、リリーのように男性の体を持っていても「女性」であるならば「エロく」表現されてしまうのであれば、制作側の何らかのバイアスのようなものが絡んでいないか、少し慎重に考えるべき問題だと感じました。

女性として生きてきた人間の献身・自己犠牲を美化していないか

そしてこの映画のモヤモヤポイントのもう一つは、「ゲルダの自己犠牲や献身を美化していないか」という点です。

結局「女として生きてきた人間」の我慢で終わっているような気もします。

この映像の監督のコメントもそれを象徴しています(2:27あたりから)

「我々の生きる時代は陰鬱だが、1920年代のこの物語には献身的な愛がある」


結局それなのかよ、という失望もちょっとあります。
だから、ちょっと違う解釈をしてみたいです。

私的解釈とまとめ

この物語は「愛の物語」だそうです。

それは「リリーの苦しみとそれを支えるゲルダの愛の物語」という見方の他に、「ゲルダの芸術に対する愛の物語」として見ることもできるような気がします。

ゲルダがリリーを支えていたのは、「それが美しかったから」ではないのでしょうか。

人物画家であるゲルダは、人がその人らしくあることに美を感じる感性を持っていたのではないかと思います。
だから、リリーを描き続けた。
愛するアイナーが消えてしまうとしても、リリーの美しさを追求したかった。
そんな解釈もできるような気がしています。

ちょっとモヤモヤするポイントはあったものの、本当に良い映画でした。