「我慢を覚えないと大変」
これらは日本に広く広まっている価値観です。
私自身、我慢は美徳であると考えていた時期があります。
「一生懸命やれば、我慢してこの苦しみに耐えれば、きっといいことがあるだろう」となんとなく思っていたことがあります。
ですが、これは嘘です!!
「我慢は美徳病」にかかっていた私が、それがなぜ悪いのかを書き出してみます。
我慢がなぜ悪いのか
単純に辛い
「辛い」基本的にはこれにつきます。
辛いですよね。
で、我慢って具体的な目標がないので終わらないんですよね。
終わりがない辛さってしんどいです。
そもそも意味がない
我慢は意味がありません。我慢して何かをしていても、それが好きな人には勝てませんし、上達のスピードも遅いです。
辛いということはそもそもその作業に対する適正が低いことを示しています。
適正がない作業に時間を費やすのは効率的ではありません。
私は人は全員何かしらの適正を持っていると考えています。
向いてない作業はある程度のところで見切りをつけて、向いている作業を探した方が賢明です。
適正とのマッチングという観点から見ると、我慢は無意味です。
得をするのは自分ではない誰か
そして忘れてはならないのが、そんな我慢をした結果得をするのは「我慢をした本人ではない誰か」だということです。例えば会社で働く人のケースを考えてみます。
上司が部下に「我慢しろ」と言ったとしたらそれは「面倒くさいから言うことを聞け」という意味です。
本来、部下が不満を持つ状況があった場合、その状況を改善するか、乗り越えるための効率的な方法を教えるのが上司の役割のはずです。
ですが「我慢しろ」はそのどちらでもなく、「ただただ精神論で乗り切れ」という意味でしかありません。
そして「細かいことは考えるな」というメッセージでもあります。
部下を無思考に陥らせる常套手段です。
結局、部下が無思考に我慢をすることで得をするのは、
・指導・管理責任を果たさずにすむ上司
・思考力を持たない社員を統率して利益を得る経営者
など、パワーを持った側の人間です。
(管理職の人も大変なのですが、末端社員から見るとパワーを持っている側と言えるかと思います)
我慢をすることで社内の評価が高まり出世するーーー
という道もないわけではありませんが、そうした姿勢を評価してもらえるかどうかは評価者のさじ加減です。
我慢する側の人間からすると不確実性の高い事柄だと言えるでしょう。
やはり、精神を壊しそうになりながら我慢を続けるのはリスキーだと考えます。
通俗道徳のワナかもしれない
勤勉、倹約のような、「深い哲学的根拠に支えられているわけでもないけれど、みんなが「良いこと」だと考えていること」は通俗道徳と呼ばれるそうです。一見なんの問題もない言説のように感じますが、そこにはワナが隠されています。
「勤勉な人は成功する」という考えは「成功していない人は勤勉ではない」という考えと繋がりやすくなるといいます。
しかし、勤勉な人が全員必ず成功するわけではない以上、成功していない=勤勉でないとは限りません。
勤勉に努力したのにうまくいかないこともあるはずです。
「成功していない人は勤勉でない。よって自己責任。助ける必要はない」として切り捨てる根拠になり得るという点で、この考えはパワーを持った側(国など)にとって都合の良いい考え方です。
通俗道徳のわなについては、「生きづらい明治社会」という本に詳しく書かれています。
「我慢は美徳」も同様、「うまくいかないのは我慢が足りないからだ」という考えと繋がります。
すると全てのことを本人の「我慢不足」に帰結させることになり、自己責任として切り捨てられる可能性を孕んでいると考えられます。
まとめ:疲れるだけの我慢はやめよう
精神をすり減らすだけの我慢はやめた方が良いと思います。やはり心身の健康を損なってまで我慢しなければならないようなことはありません。
特に若い人はやる気があって(我慢もできちゃって)素直な人が多いんので、気を付けてほしいなと思います。