「恋は雨上がりのように」感想 これは恋愛物語ではない気がする

遅ればせながら、プライムビデオで「恋は雨上がりのように」を見てみました。
(以下、ネタばれ含みます)


とてもさわやかな物語


「中年男性と女子高生の恋」と聞いて忌避していたのですが、実際はとてもさわやかな話でした。
本当に「雨上がりのような」爽快感があります。

そもそも「恋」ではない

この物語は2人が結ばれないことについて作者に対する非難が相次いだそうです。
しかし、結ばれないのは当然だと思います。

なぜなら2人とも「恋」はしていないように見えるからです。

あきらは「大人に対する無邪気さ」

女子高生・あきらは怪我が原因で陸上をあきらめてしまっています。

元々エースとして期待されていた有望な選手でした。

陸上選手であったあきらには、エースとしての重圧があったことでしょう。
「頼もしい自分でなければ」という思いもあったかもしれません。
女子高生にしては大人びているあきらの人格形成に、それらが大きく影響を与えていたと想像できます。

陸上を失ったことによって「頼もしい自分」が一度リセットされたように感じました。
そこで「大人に甘えたい」という素朴な願望が芽生えたのではないでしょうか。

しかし学校や家庭内でキャラクターを変更するのは勇気がいることです。
それにあきらはそこまで自覚的ではないと思います。

結局、生活圏にいる「”陸上部のエースだった自分”を知らない頼りがいのある大人」が店長だけだったということなのではないでしょうか。

「大人に甘えられる安心感」を、あきら自身が恋だと勘違いしているように見えました。

陸上を失った虚無感を埋めるのに心地いい感情だったのではないかと思います。

店長は「若さへの羨望」

それに対し、店長はあきらに対して好感を抱きこそすれ、それが恋ではないことに自覚的です。
それは「若さ」や「将来の希望」に対する羨望です。

大人が子供に対して「キラキラ感」を感じるのは一般的な感覚だと思います。

ファンタジーとリアルが絶妙な店長の人物設定

この物語の最大のポイントは、店長の人物設定ではないでしょうか。

大人にあこがれる女子高生は実際にいます(※ただし性的な関心を向けられると幻滅するケースも多いです)。

しかし、若い女性に対する好感を「若さへの羨望だ」と自覚的に解釈する大人の男性は珍しいと思います。

(偏見も含まれるかもしれませんが)男性は「かわいい」「好き」「セックスしたい」などの感情が大雑把にまとまっている印象です。
「かわいい」=「やりたい」などが自動的につながっており、性的な視点に帰結することに疑問を持たない人が多いです。

その点、店長は「好き」ではあるが、「セックスしたい」ではないことを分かっています。
これはメタ認知ができていると言えます。
この点はある意味ファンタジーだと思いました。

ただし、そのファンタジーに若干のリアリティを与えているのが「文学好き」という設定です。
店長が小説家を志していたこと、文学に詳しいことがここで大きな効果を持ちました。

人間の内面に関心があり、それを表現する言語を持っているからこそ、このような理性的な思考が可能なのだと解釈することができます。

まとめ

最終的には二人とも自分の目標を見つけるというラストがよかったと思います。
これは「恋愛もの」として見ない方がいい物語だと思います。

ではまた♬