性被害者に自衛論を説くのは間違いである

性犯罪に遭った被害者に向けられる「自衛論」。これは無意味であると考えます。


自衛が大切なのは間違いない だがしかし

自衛が大切なのは間違いありません。
しかし、どういったものが「自衛」なのでしょうか
なるべく大通りを通る、周りを警戒する、二階以上に住む、下着を外に干さない。
こういったレベルであれば女性はすでに自衛をしています。

「短いスカートを履くな、露出をするな」

過度に派手な格好をしているから被害に遭うのだ---
これは広く浸透している神話ですが、実際には誤りであることがわかっています。
服装が派手だから被害に遭うわけではありません。

これは被害者への二次加害への反論として行われた、性被害に遭ったときの服装を展示した展示会の様子です。
そこに飾られているのは露出の多い派手な服ではありません。



引用:HUFFPOST「レイプされた時、あなたは何を着ていた?」 性暴力と服装の相関関係を問う、アメリカ大学の展覧会

「性被害に遭うような場所に行かなければいいだろう」

それは一体どこなのでしょうか。
電車や学校の周辺、本屋、道端…
加害者が出没する場所は特定できません。
わかっているなら教えてほしいくらいです。

考えられうる自衛をしていたところで、実際に製被害に遭ってしまえば「自衛していない人」認定されてしまうのです。
これはあまりに理不尽ではないでしょうか。

「痴漢は犯罪です」レベルの社会で自衛論を説くのは害

「痴漢ぐらいで騒ぐな」という認識の人はまだまだ多いです。
「痴漢は犯罪である」という至極当たり前のことが周知されていない社会に私達は生きています。

この状態で被害者への自衛を説くことは「被害者に落ち度があった」ことに目を向けさせ、加害者の責任を軽減させることになります。
被害者の責任を問うことは加害者に加担しているのと同じなのです。

性犯罪は自然現象ではない

「そうは言っても性犯罪は無くならない。自衛するしかない。」という声も聞きます。

「無くせないなら加害者を非難する意味がない」と考えているならそれこそ暴論です。
たとえ0にならなくとも、加害者を非難する土壌があれば減ることが予想されます。

性犯罪をしたら糾弾される社会と、性犯罪をしても社会が被害者を責めてくれる社会では、どちらが性犯罪をしやすいかは自明でしょう。
性犯罪は避けられない自然災害ではないのです。

まとめ

自衛をしなくとも性犯罪に遭わない社会が理想なはずです。
被害者に「自衛論」を説くのは無意味で、ただの二次加害です。
加害者を非難するという一択であるべきです。