どこに違和感があるのか、気になった点をまとめてみました。
「女の時代、なんていらない」そごうの広告
女の時代、なんていらない?
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。
今年はいよいよ時代が変わる。
本当ですか、期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久にこなくていいと私たちは思う。
時代の中心に男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか?
わたしは、私。
おそらく、この広告は「女とか男とか関係なく、大切なのは私が私だということだ」というメッセージを伝えたいのだと思います。
それ自体は間違っていないと思います。
しかし、いくつか気になる点があります。
①メッセージの内容と言うべき対象がズレている
「女だから強要、無視、減点される」というのはセクハラやマタハラ、医大の不正入試のことを指しているものと思われます。それを起こしているのは、ほぼ男性で構成された「男社会」です。
「男だから、女だから」の差を生み出しているのは男性側です。
女性ではありません。
その女性側に「男も女もない」と言っても意味がありません。
むしろ男性向けの広告であれば、「男も女もない」が「女だからという理由で不当な扱いはやめろ」というメッセージになったかもしれません。
②社会問題を個人に帰結させる手法は不適切
そして、大きな社会問題を最終的に個人の問題に帰結させるような手法にはリスクがあります。女性差別は構造的な問題です。
差別が起こる構造を解体することを目指さなければいけません。
それを「私は私」のような「個人の意識の持ちよう」に帰結させると、本来の問題点が見えづらくなります。
また、個人の問題にすると、「あなたの現状の生きづらさは女だからではない。あなた個人のもの」という意味になり、自己責任論にもつながりやすくなります。
「私は私」というメッセージは決して間違っていませんが、差別問題がまったく解決していない状態での個人主義は、差別構造の強化につながってしまう危険性があります。
まだまだ女性たちは、通常の人権を得ることができていません。
そんな中で「私は私」といわれても、虚しさを感じてしまいます。
③報道されて遠ざかる「女の時代」とは何か
「女であることの生きづらさが報道され、そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。」この文章も不可解です。
確かに「女としての生きづらさが報道されること」は、女性にとってはしんどいです。
社会に対する絶望感や失望感が生まれることを避けることはできません。
しかし、今まで当たり前だった理不尽が可視化されてきたという意味では、小さな前進だと捉えることもできます。
報道によって問題意識を持つようになった人は少なくないでしょう。
それを「女の時代は遠ざかる」と表現すると、「報道しない方がよかった」と言っているかのような印象を受けます。
問題を周知させると遠ざかる「女の時代」とは一体何なのでしょうか?
よくわかりません。
④「もてはやされる」という表現
また「活躍だ、進出だと”もてはやされる”だけの」という文言も気になります。先に述べたように、女性はまだ男性と同等の働きやすさを手に入れているとは言えません。
「もてはやされる」という文言は、女性の働きにくさの現状を知らないおじさんの発想がにじみ出た表現です。
女性の発言として「もてはやされる」という表現を使うことには違和感があります。
⑤写真
この広告では、パイを投げつけられている女性の写真を使用しています。おそらく「現代社会で理不尽な目にあう女性」を表現したものだと思います。
しかし、この広告のメインメッセージは「わたしは私」の方でしょう。
痛めつけられている写真と「わたしは私」のメッセージはミスマッチです。
どちらかというと女性がパイを投げつける描写の方が違和感が無いような気がします。
女性を痛めつける内容の表現物は巷に溢れすぎているので、女性向けの広告ではなるべく避けていただきたいです。
見ていて辛くなります。
まとめ
以前の樹木希林さんの広告は好きだったので残念です。そして、この写真の女性は安藤サクラさんのようなので、それも残念です(安藤サクラさん好きなので)。
去年までのこのシリーズの広告は、「既存の”女らしさ”に縛られずに好きなファッションを楽しもう!私は私」というメッセージがありました。
その感覚で社会問題を語ってしまったことが、今回の広告の違和感の元のように思います。
社会問題を語るには、より細やかで高度な表現が求められます。
今回の広告は、配慮が足りなかったと思います。